ホーム 御祭神について歴史本殿-大田市指定文化財-宝暦館石見銀山と西田地区ヨズクハデ交通アクセス

歴史 水上神社

■延喜式内社

水上神社は延喜式内社です。延喜式とは平安時代第60代の醍醐天皇の御代の延喜5(905)年~延長5(927)年の22年間をかけて編纂された平安時代初期の国家の法制書で、延長5年左大臣藤原忠平・大納言藤原清貫等によって奉進され967年に施行されました。全50巻のうち9巻と10巻は全国3132座(神社の数は2961社)記したいわゆる『延喜式神名帳』で、平安当時、格式があり重要とされた神社が記載されています。水上神社は石見の国34座の一つとして名を連ねています。

■水上神社文書

 水上神社文書は、大田市温泉津町西田に鎮座する水上神社とその神主を務めた宮能家に伝来した古文書群で、総点数は115点にも及びます。時代は近世から近代にかけてのもので、近世文書の多くは吉田家からの「神道裁許状」(吉田家より神主に出された免許状)とそれに関連する書状等で、寛永年号の比較的古いものがみられます。近代文書では「神社明細帳」(近代に作成された神社の台帳)の作成や神社と県、郡の諸役所とのやりとりに関する史料が多く残されています。

■毛利輝元袖判下文

毛利輝・袖判下文 釈文
(花押)
石州西田神主職之事
社役任先例可相拘事
肝要候仍如件
元亀三年二月朔日

  兵部太夫殿



 袖判下文(そではんくだしぶみ)とは、文書様式のひとつで、文書の袖(右側空白)に花押(かおう)を書き、上位者の命令等を伝達したものです。この下文は、元亀3(1572)年に毛利輝元(もうりてるもと)が水上神社の祭祀権を神主の宮能氏に対し保障したものです。
 同様の文書が湯里の八幡宮の神主であった竹内家へ出されており、温泉津の西楽寺(文書では前身の正恩庵)へは諸役免除の文書が出されています。これらの史料は、毛利氏が西田、湯里、温泉津周辺をその支配下に置いていたことを示すもので、毛利氏の銀山支配の一端がうかがえる史料です。
 また、この文書の出された前年の元亀2年には、輝元の祖父の毛利元就(もとなり)が没しており、石見銀山の支配をめぐって、毛利家の代替わりに合わせて出された文書である可能性も考えられる興味深い史料です。

■水上神社造営記

水上神社造営記  宝暦11(1761)年の水上神社の造営に関する記録で、序文、造営の決算、奉加帳の三部から構成されています。序文において古い社殿は、神社の額の裏に「元亀二天十二月二日」とあったことから、「将軍は足利義昭公(あしかがよしあきこう)、国守ハ毛利中納言輝元卿」の元亀年間の造営であったことが記されています。
 また、造営費の総額は、銀1貫890匁1分1厘、当時の米価から換算すると、現代の金額で約171万円となります。ただし、賃金等から換算した場合は、米価の数倍になると推測されるため、水上神社の造営は、数百万~1000蔓延規模の大規模な事業であったと考えられます。
 このほか、現存する本殿の3種の蟇股(かえるまた)(蛙が股を広げたような形をした建築部材)と蟇股の裏に記された寄進者の名前が、造営記の記載と一致しており、棟札とともに社殿の歴史を裏付ける貴重な史料です。

水上神社
© 2018 水上神社